私が知っている血管外科
財団法人田附興風会医学研究所北野病院 院長
山岡 義生
 私が血管外科というものを初めて知ったのは,昭和41年に京都大学外科に入局した時,第二外科(現消化器外科)故日笠頼則教授の下で,膜型バッド・キアリの手術例の報告者として知られていた広岡仁夫助手の末梢血管の手術に入れていただいた時である.その後,昭和52年,京都大学の第一外科(現腫瘍外科)の助手時代に第二外科と助手が交流したことがあるが,その時,第二外科の血管外科を担当しておられた熊田 馨講師の腹部大動脈瘤の手術に入らせてもらい,少し大きな血管にもなじみができた.その時の言葉で,「電気メスは水鳥が水面を走るがごとく扱え」といわれたのがいまだに耳に残っている.昭和53年から浜松労災病院の第二外科部長として赴任したのであるが,胆管がんが門脈に浸潤していた症例にぶつかり,「熊田先生だったらこうするかな?」と思って,サティンスキー鉗子で門脈を挟んで合併切除した.自分が責任を持って実行した血管外科の最初である.また,腹部外傷で脾臓破裂と上腸管膜動脈が損傷していた症例で,脾摘が終わってヤレヤレと思っていたら,血圧の上昇とともに血液が噴出しだし,初めて動脈損傷が判明したもので,これは血管縫合糸を 3 針かけて止血できた.今から思うとなんでもない手術ではあったが,一般外科医で対応できたのも,大学時代に数例ではあるが熊田先生と一緒に手術に入れていただいていたおかげであったと感謝している.
 本格的に肝臓と関連して血管を触るようになったのは,小澤和恵先生が京都大学の第二外科の教授に就任され,私がその助手として浜松から戻していただいた,昭和60年代からである.そこには,熊田先生,森敬一郎先生という血管外科の専門家がおられたし,小児外科で田中紘一先生が血管を触る手術も手がけていた.また,同じ病棟を使って,伴 敏彦教授が率いる心臓外科も独立していたので,血管系の手術を見るには事欠かなかった.
 食道静脈瘤の治療の一つとして,遠位脾静脈・腎静脈吻合を熊田先生がやっておられ,膵臓からの剥離にバイポーラーを使うことを提案して採用されたことも思い出の一つである.バイポーラーについては,これまた古い話で,昭和50年頃,後に札幌医大の脳外科教授になられた端 和夫先生のご母堂が,故本庄一夫教授に手術を受けられたときに主治医であった私との会話の中で,「脳外科ではバイポーラーを駆使して出血を少なくするんや」といわれたことから,その頃,実験室でありとあらゆる動物の門脈を露出する実験をしていたので,「小動物用にはこれや」と考えて当時70万円位したバイポーラーを買ってたちまち使い手になった.以後,浜松時代,自分の手術で愛用するようになり,熊田先生への提案に繋がったのである.もちろん,後日,肝実質の切離にキューサーとバイポーラーを使うようになった原点でもある.
 当時,進行した肝癌がよく紹介されてきて果敢に挑戦したものである.肝臓の手術をすると大出血するというのが当たり前のような時代で,新鮮血輸血のために,10人ほど待機してもらうこともしばしばあった.門脈に腫瘍栓が充満している肝癌の手術には,血管外科の経験の深い熊田先生の出番が多かった.熊田先生はいろいろ考え,それを楽しむ感じのある人で,沢山のオプションを提案し実施された.その頃,肝臓移植の世界では体外循環(バイオポンプ)を使う手術が多く発表されていたので,肝臓癌の手術に応用した.その頃から,小澤教授の指示で,教室を挙げて肝臓移植の実験を開始した.教室員を 5 人くらいの単位のチームをいくつも作って,7 ~10日間の予定でピッツバーグのスターズル教授の率いる移植集団の見学を実施した.当時,藤堂 省先生(現北大教授)がラボの責任者をしておられ,京大からは田中紘一,上山泰男(現関西医科大学外科教授)の 2 人が留学していた.見学旅行で感じたこと,勉強になったことを 1 冊のスクラップブックに,スタッフのみならず,参加した誰でもが書き込んで共通の知識の財産とした.結果からみると,多くの人が下大静脈吻合の方法と,下大動脈とグラフトの腹腔動脈根部に作るパッチとの吻合法を,詳しく観察していたことがわかった.
 私は,その後,文部省の科学研究費の海外流動研究で,ハノーファー医科大学でドナー隊と一緒に行動することになり,また,肝移植のみならず膵移植,腎移植にも参加させてもらったので,Pichrmeyr門下の若きエースたち(Ringe,Gubanatis,Schlitt,Bunzendahl,Oldhaferなど)と仲良しになった.印象に残ったのは,大きな腫瘍の肝切除の際,バイオポンプで体外循環したうえで,切除肝を灌流冷却する手術で,帰国してすぐに教室で報告し,大腸癌の肝転位症例に実行した.もう一つ感心したのは,下大静脈を合併切除した症例に人工血管を使わず,大伏在静脈を短冊状にしたもの 3 枚を縫い合わせてグラフトを作成したもので,Schlittが丁寧に縫い合わせていた.これも輸入して,外腸骨静脈を 2 枚使ったグラフトを作成した.
 教室の移植夜明け前ともいうべき時に,田中紘一先生と 2 人でシカゴ大学でBloerisch教授の生体肝移植を見て,我々のところで十分やれるという自信がついた.生体肝移植に入ってからの血管吻合についてのいろいろな工夫は多く発表してきたが,特記すべきことは,小児肝移植におけるマイクロサージャリーの導入である.脳外科の菊池晴彦教授門下生の協力があって,世界的に小児の移植成績がよくない主因は術後動脈血栓であったことを解決した,といっても過言ではない.永田 泉先生(長崎大学教授),山形 専先生(倉敷中央病院部長),宮本 亨先生(国立循環器病センター部長)が深夜でも駆けつけて助けていただいたことを,今でもありがたく思い出す.「気になる 1 針を残してはいけない」との菊池語録を伝え聞いたのもその時である.動脈吻合を教室の若い人にネズミで練習をさせて,最後は私が顕微鏡下で前立ちし,検閲して臨床でやってよいとの許可を出した.臨床でやってもあまりモタモタする人には,一旦ラボへ出直しをさせたほどで,その結果,根性の座った優秀な外科医に育った人がいる.自前でやれるようになっても,大変な症例はSOSを出して宮本先生を呼び出した事も何度もあった.現在では全ての症例に顕微鏡下手術を適応する必要はない,というのが定説であろう.
 自分ではあまり自覚しないうちに血管外科学会に参加していたのは,多分,三島好雄先生,熊田 馨先生,菊池晴彦先生など先輩のご推薦によったものだろうと感謝している.消化器外科医を目指して医者になったが,いろんなところでいろんな先生にお世話になり,思いも寄らなかった血管を直に触るようになっていた.ただ,ひたすら目の前のことをやってきたらこんなことになってしまった,という老いぼれた外科医者の思い出話である.
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