バルーンと左腕頭動脈
岐阜県赤十字血液センター 所長
広瀬  一
 血管外科は当初目指したものではなかったものの,結構付き合いは長かった.そのなかで何か印象に残っていることをあげるとすれば,バルーンカテーテルと左腕頭動脈との二つであろう.種々のバルーンカテーテルに助けられて,また左腕頭動脈の再建を無視する手技に救われて,未熟さを補ってもらった.これらについて少し書いてみたい.外科医としては現役を引退しているので新鮮味はなく,また百科事典で調べた「巻頭言」には適さないとの顰蹙をかうことは否めないが,お許しいただきたい.
 大阪大学第一外科で心臓外科グループに属していた私が,曲直部壽夫・川島康生両恩師(ともに阪大名誉教授,国立循環器病センター名誉総長)から最初に担当させられたのは移植免疫,すなわち臨床では心臓移植であった.ところが阪大・岐大両施設在職時代にこれを行えなかったことが,血管外科を始め,続けた経緯とつながる.
 当時心臓移植を自分のメインテーマにしていた方の多くは,「臓器の移植に関する法律」ができて,移植が再開されるまで研究と臨床が同じ領域ではなく,臨床的には他の分野に携わらなければならなかったことと推察する.私もその一人に過ぎない.
 川島先生から,当時ニューヨーク州立大学(NYSU)Stony Brook校にいた私に,「心臓移植の準備をしたいので」との帰国命令がでたのは1981年である.私の優雅な(?)二度目の米国での生活を断念することになった.二度と阪大に帰ることはないと長期滞米の決心とともに渡米していたし,Grantの一部を割いてGreen Cardを取らせていただける寸前の時でもあったので,私としては予期しない帰国となった.
 その再帰国当時,第一外科心臓外科研究班では,臨床的には川島教授の下に先天性,弁膜症,冠動脈疾患,血管疾患などのグループがあり,主だったメンバーがそれぞれの得意分野を担当していた.そのうち,いずれも同級生であるが北村惣一郎君(現循環器病センター総長)がすぐに奈良医大へ,その約半年後に親友大西健二君が抜けた.彼らはそれぞれ冠動脈疾患,血管疾患を担当していた.両人はその後もこれらの専門領域では日本のトップレベルを走っている.一方,帰国したものの私は「移植」では臨床例がなく手持ち無沙汰で,日常臨床診療では必然的に彼ら二人の抜けた穴を埋めることとなった.これがわたしの血管外科に携わるようになった経緯である.
 当時の胸部大動脈外科でのチャレンジの主項目は,手術時の虚血臓器(脳・下半身臓器)保護と大動脈解離に対する確実な吻合手技とであった.この二つは外科医生活の最後まで続いた.前者を目的として超低体温・循環停止の論文を発表したDr. GrieppはNYSU Down State校にStanford大学から移ってきたものの,病院内で患者にピストルを持って追いかけられた??など,当時ニューヨークに住む医者仲間に漏れ伝わってきた後,同じニューヨークにあるMount Sinai病院に移った頃であった.私のいたStony Brookでも,弓部を含む大動脈外科は見聞するチャンスは少なく未経験の世界であったため,大西君の抜けた穴は大きく,彼は手技的にも卓越していたので,これを埋めるのに苦労したのが血管外科との付き合いの始まりである.
 1980年代初期では高齢者の手術適応は限定されていたので,弓部大動脈瘤(distal aortic archを含む)症例数も昨今ほど多くはなく,経験が少なく,微妙に異なる想定外の状況に遭遇した.それらの処理の難易度はさまざまであったから,時間的制限と戦う超低体温循環停止脳保護法,さらには下半身臓器保護にopen distal法を用いることは躊躇された.そこで阪大では比較的得意としている体外循環,すなわち順行性脳灌流の最適条件(温度,<灌流量・還流圧のいずれで制御するのか>など)を見出すこと,もうひとつは末梢側吻合時の下半身の保護にも灌流を,という発想から,これらの課題を解決することとなった.前者は比較的正攻法で解決できた(Ann Thorac Surg:1985)ものの,最も避けたい合併症のひとつである片麻痺を避けるための下半身灌流については,それを恐れて下半身を灌流しようとすると左開胸を加え,下行大動脈を遮断しなければならず,これも侵襲が大きく避けたかった.そこで胸骨正中切開のみで,大動脈内腔から吻合操作を行い,末梢を灌流しながら末梢側吻合を行う時間的余裕を得るため,当時大動脈瘤破裂に際してその一時的血行遮断のために市販されていた逆行性に挿入可能な大動脈遮断用バルーンカテーテルを応用することとした.すなわち一側の大腿動脈から送血を行い,対側の大腿動脈から逆行性に下行大動脈の末梢側吻合部のdistalまで挿入して,先端のバルーンを膨隆させ,大動脈内腔を閉鎖することにより大腿動脈より下半身の送血を持続的に可能にし,末梢側吻合に時間的余裕ができるようになった(Ann Thorac Surg:1985).
 血管外科でのバルーンとの付き合いはこれが初めてではなくて,医師生活 2 年目の1967年,日生病院勤務中に心筋梗塞後の左室内形成血栓が遊離したために生じた下肢急性動脈塞栓症例に対して,川島先生がFogartyバルーンカテーテルを持って駆けつけていただいたことに始まっている.このカテーテルはご存知のごとくバルーンをうまく使った医療器具である.これを症例報告としてまとめたのが,私にとってはじめて書いた論文である.
 さらに1987年,岐阜大学に移った後の胸部大動脈瘤の 1 例目は偶然にも嚢状遠位弓部大動脈瘤の破裂例であった.阪大での経験を駆使して救命できた.これをきっかけにあまり実績のなかった弓部大動脈症例が少しずつ集まってきたように記憶している.ところが適応を拡大して対象年齢を上げるに従い,このカテーテルが挿入できない状態,すなわち到達路の途中に狭窄・拡大がある状況では挿入を躊躇するし,さらに大腿動脈送血もできない症例(送血途中に逆行性送血により遊離・飛散しそうな多量の血栓の存在,血管閉塞により大腿動脈送血が不可能な例)に遭遇した.そこで,前者では送血圧によって押し戻されないようにワイヤーで補強して順行性に挿入できる(日心血外会誌:1990,Heart & Vessels:2003),後者ではそれに加えて送血できる内腔を有するバルーンカテーテルなど(J Thorac Cardiovasc Surg:2002)を作って使用した.私は吻合時間の問題から,頻回に用いた.手術視野から挿入するため,視野の妨げにならないような特有の工夫と適切な固定が必要だが,特殊例すなわち吻合に時間を要しそうな場合,とくに弓部大動脈瘤(とくにdital arch)の体験初期,あるいは破裂ですでに低血圧状態が続き,下半身の臓器の虚血耐用時間が減少している可能性があるような場合には今でも有効であろうと考える.
 しかしながら,一部の症例で,初回手術時に用いたこのカテーテルは解離に利用するのは全身状態が悪化している症例があるため得策ではないと考えている.そこで大動脈解離 I 型急性期例において,弓部まで人工血管で置換する手技で,時間的に,手技的に何かいい方法はないかと考えた.それまでにdistal archの瘤では末梢側吻合線が左腕頭動脈起始部辺りにかかり,吻合の難易を左右することがある例,すなわち同動脈の起始部の脆弱さと胸腔内部分の瘤化のために再建放棄を余儀なくされた例で,術後あまり症状を訴えなかった例を阪大で経験をしていた.その後,多少異論はあるものの,状況に応じて左腕頭動脈領域は再建しなくても予後は比較的良いことから,これを結紮後その再建を行わずに済ますと,比較的容易な部位で縫合可能な症例を経験した.これにより大動脈内腔を通しての末梢側吻合が比較的容易になった.そこで,解離 I 型例に左腕頭動脈の中枢側でelephant trunk手技を用いて吻合すると,視野の良い比較的中枢側で吻合操作が可能になり,手技的に楽になる手法へと発展した(J Thorac Cardiovasc Surg:2003).この手技では,再手術時までは人工血管と大動脈壁との間から同動脈は還流されている.しかし,例え閉塞しても大事に至らないことから試みたものである.もちろん再手術時には再建は容易である(Heart & Vessels:2005).
 このように種々のバルーンカテーテルに助けられて,また左腕頭動脈の再建を無視する手技に救われて,未熟さを補ってもらいながら血管外科と付き合ってきた.これも血管外科を始めたときに,不慣れであったため何とか手技的なまずさを他の補助器具で,あるいは手段でカバーしようとして生まれた産物であった.手術適応も高齢化し,症例が増加した昨今では,手技的にも,あるいは補助手段の使用方法にも慣れ,ここに述べてきた手法が今後も利用される可能性は少ない.しかしながら不慣れな血管外科医の試行錯誤の過程が何かの参考になればと書かせていただいた.
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