「血管外科学」学
春日井市民病院 院長
矢野  孝
 「ただに血を盛る瓶ならば」と,旧制高等学校応援歌に歌われた.血液は身体を充たし,この血液は血管を介して全身を巡っている.血管はその複雑な生物学的な構造と機能において単なる管ではないが,一方では管としての「定め」に縛られている.管の終焉といえば,管の破綻と内腔の閉塞である.血管においては,前者は動脈瘤の破裂として出来し,後者は血管閉塞性疾患という病態を生じる.
 動脈瘤の疾患名は,通常,血管の解剖学名に「動脈瘤」という語を付加して著すものと念じてきた.「橈骨動脈瘤」あるいは「腹大動脈瘤」という具合である.この命名ルールに忠実に従うと,しばしば混乱が生じる.解剖学の教科書によれば,大動脈は上行大動脈と大動脈弓,下行大動脈に分けられ,下行大動脈は横隔膜を境に胸大動脈と腹大動脈に分けられるから,「上行大動脈瘤」は「胸大動脈瘤」には含まれないことになる.もっとも昨今は「上行大動脈瘤」,「弓部大動脈瘤」と明示されるので,論文を読むときに気を遣わないで済むようになった.この意味で「下行胸部大動脈瘤」という名称は,解剖学的な血管名に「瘤」という語を送って,響きが嬉しい.ついでに,胸腹大動脈という解剖名はないから,「胸腹部大動脈瘤」は臨床診断名としてのみ成立つと皆で納得している.余計なことをいうと,「上腕動脈瘤」はあるが「前腕動脈瘤」はない.上腕動脈という解剖学名はあるが前腕動脈は解剖学名ではないからである.このことを賢明な友人に話したら,「『前腕動脈瘤』を『前腕動脈の瘤』とするからいけないので,『前腕の動脈瘤』と解釈すればよいのだ.『下肢静脈瘤』というのと同じだ」と一笑に付された.ここで退き下がっては「こだわり居士」の沽券にかかわるから,無理を承知で反論する.「そもそも静脈疾患の診断名は気に入らないところが多々ある.浅大腿動脈に併走する静脈を浅大腿静脈として,これが閉塞すると途端に『深部静脈血栓症』となって『浅』と『深』がすり替わるのも不合理だ.静脈疾患の例を持ち出すのは妥当でない」と「議論の物別れ」までこぎつける.さらに続けて「君のいう通りならば,前胸部で鎖骨の下に突出した拍動瘤は『腋窩動脈瘤』ではなくて『鎖骨下動脈瘤』でよいのか.そうすると『腋窩-大腿動脈バイパス』は『鎖骨下-大腿動脈バイパス』と呼ぶべきなのか」と食いさがる.「いま『鎖骨の下に突出した』という言葉を使ったが,ここで『下』というのは,解剖学的姿勢,すなわち立位で上肢を下垂して手掌を前方に向けた状態で規定される『下』という意味である」と,発言に権威付けすることも忘れない.友人のこのときの捨てぜりふは「君もその様な非生産的な『虚学』に精を出す暇があったら,手術のトレーニングでもやったらどうだ.『血管外科学学』なんかやらずに『血管外科学』をやれ」であった.初めは「虚学」とか「血管外科学学」というのがよく判らなかった.話を聞き進むうちに,「虚学」とは「実学」の反意語で,「血管外科学とは何か,血管外科学はどうあるべきか」という役にも立たないことに拘わる自分が揶揄されているのだと判った.「実学」に精進せよという有難い忠告である.
 管に生じるもう一つの病態,すなわち血管の内腔閉塞でも「虚学」が顔を出す余地は充分ある.動脈閉塞を来す疾患の代表は「閉塞性動脈硬化症」であるが,状態を示す「閉塞(性)」という接頭語が気にいらない.「閉塞性」とは,「すでに閉塞している」のか「閉塞に向かって進んでいる」のか気になるのである.ここは動脈瘤の命名法に準拠して是非「動脈硬化性閉塞症」に変えて欲しいというのが「一虚学徒」の願いである.「破裂性動脈瘤」ではなく「動脈瘤破裂」にするべきだという主張の延長線上にある.
 この「閉塞性動脈硬化症」には別の意味で悩まされている.最近は一般開業医で無侵襲性の血管検査装置を備えていることが多くなった.来院者を片っ端から検べて,脈波(伝播)速度から「動脈硬化症」と診断されたので精査して欲しいと,患者が血管外科に送られて来る.脈波速度が測定できるような装置は必然的に足関節上腕血圧比も測定されるので,ほとんどが1.0以上あることが紹介状に付記されている.
 小生に限っていえば,動脈硬化の成立や進展の病理学は,講演会で繰り返し聞く程度のことまでは理解できるが,それ以上のこととなると追随できないし,悲しいことに特別に興味も湧かないのである.さっきまで「虚学」とやらをまくし立てておきながら,さっと実用本意に乗り換えて,「動脈硬化症だろうが何だろうが,血管が膨らんでいるのか塞っているのかが,小生の如き場末の血管外科医にとって関心事なのだ」と居直る.脈波速度で動脈硬化を診断されて紹介されてきた人には,製薬メーカーが置いていったパンフレットを差し出して,家に帰ってから良く読んで下さいということになる.このときに渡すパンフレットは,生活習慣病と書いてあれば,閉塞性動脈硬化症でも糖尿病でも痛風でも一向に気にかけないという横着さである.ただし紹介状の返事を書くためにも一応のスクリーニング検査は行わなければならず,これがVascular Laboが混雑する原因となるのが悩みの種なのである.
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